日航機墜落事故から40余年 坂本九さんはなぜ123便に乗ったのか
1985年8月12日、日本の航空機事故史上最悪となる520名もの尊い命が失われた日本航空123便墜落事故。単独機としては世界最悪の死者数を記録したこの悲劇の中で、国民的歌手・坂本九さん(享年43)が命を落とした報せは、日本中を大きな悲しみと衝撃で包みました。
事故から40年以上が経過した2026年の今もなお、多くの人々の心に疑問として残り続けているのが「普段は徹底して全日空を利用していた坂本九さんが、なぜあの日、日航機に乗ってしまったのか」という運命の巡り合わせです。妻である柏木由紀子さんの証言や残された遺品の手がかりをもとに、あの日起きた出来事の全貌と真相を振り返ります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:坂本九さんは過去の恐怖体験から普段「全日空(ANA)」を指名していたが、お盆の激しい混雑により満席だったため、やむを得ず日航123便へ変更した。
- 要点2:大阪へ向かった目的は、元マネージャーの選挙事務所開きや知人の激励という義理人情に厚い坂本九さんならではの「最後の仕事」だった。
- 要点3:損傷が激しかった遺体の中から、肌身離さず愛用していた「笠間稲荷神社のペンダント」が決め手となり、奇跡的に身元が確認された。
【運命の選択】なぜ全日空からJALへ?坂本九さんが123便に乗った知られざる経緯
坂本九さんをよく知る関係者の間では、彼が移動の際に「徹底して全日空(ANA)を選んでいた」ことは有名な事実でした。これには明確な理由があります。坂本九さんは1955年、13歳の頃にプライベートで搭乗した日本航空機が羽田沖で起こした不時着事故(胴体着陸事故)を間近で目撃、あるいは搭乗を巡るトラウマを経験しており、「JALは避ける」という強い信念を抱いていたと伝えられています。
しかし、1985年8月12日は折しもお盆の帰省ラッシュ初日。東京・羽田空港発の地方路線は全日空・東亜国内航空を含め、全便が完全に満席となっていました。
当日の夕方、大阪での仕事に向かう必要があった坂本九さんのため、所属事務所のスタッフは必死で各航空会社の空席を探し回りました。そこで奇跡的とも不運ともいえる形でキャンセル待ちから手配できたのが、日本航空123便(ボーイング747SR-100型機)だったのです。
「どうしても今日中に大阪へ行かなければならない」。誰よりも安全に気を配っていた坂本九さんが、義理と約束を果たすために選んだ唯一の空席が、結果として運命を暗転させることになりました。
【最後の仕事】大阪へ向かった目的と「家族を想う」直前の足取り
坂本九さんが過密日程を押してまで大阪へ向かおうとしていた理由は、かつて自身のマネージャーを務め、長年苦楽を共にした親友の選挙事務所開きや激励に駆けつけるためでした。さらに、翌日には大阪のテレビ番組出演や関連イベントなどの予定も控えていました。
周囲の人情を何よりも重んじる坂本九さんにとって、どんなに多忙であっても「友の晴れ舞台に駆けつける」ことは譲れない信念でした。
羽田空港へ向かう直前、自宅で妻の柏木由紀子さんや娘たちと過ごした穏やかな時間が、家族にとって最後の団らんとなりました。出発間際に見せた笑顔と「行ってくるよ」という言葉を残し、九さんは空港へと向かいました。
坂本九さんの座席位置はどこだったのか?生存者との明暗を分けた機体構造
事故当時、坂本九さんが座っていたのは「32H」(機体中央付近、右舷通路側)の座席でした。この座席位置が、後の明暗を決定づけることになります。
日航123便の悲劇において、奇跡的に救出された4名の生存者(川上慶子さん、落合由美さん、吉崎博子さん、吉崎美紀子さん)は、いずれも機体最後尾の「54列〜56列付近」の座席に座っていました。
巨大旅客機が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に時速数百キロで激突した際、衝撃は機体前方から中央部にかけて壊滅的に集中しました。後部座席の一部が立木に接触しながら斜面を滑落して衝撃が緩和された一方、坂本九さんが着席していた32番列を含む中央キャビンは、すさまじい衝撃波と破壊力に直接晒される結果となったのです。
【奇跡の身元確認】胸元に残された「笠間稲荷のペンダント」と遺書の有無
事故直後の御巣鷹の現場は凄惨を極め、遺体の損傷はあまりにも過酷なものでした。事故から数日間にわたり身元の特定が困難を極める中、坂本九さんの遺体の発見と確認を可能にしたのは、彼が首にかけていた「笠間稲荷神社のペンダント」でした。
坂本九さんは幼少期に茨城県笠間市へ疎開していた縁から、笠間稲荷神社を生涯の心の拠り所として深く崇敬していました。母から贈られたその神社のお守りペンダントは、入浴時以外は肌身離さず身につけていたトレードマークでした。
現地に駆けつけた柏木由紀子さんは、激しい損傷の中でも胸元に残り続けていたその小さなペンダントを確認し、変わり果てた夫との対面を果たしました。
なお、墜落までの約32分間の迷走飛行中、機内では何人かの乗客が家族に向けたメモや手帳に遺書を残していました。しかし、坂本九さんが書いた遺書は発見されていません。暗闇と激しい乱高下が続く絶望的な機内において、九さんは最期の1秒まで生き抜くことを信じ、祈り続けていたと考えられています。
妻・柏木由紀子さんが守り続けた九さんの魂と「上野村・慰霊の園」への祈り
突然の悲劇によって最愛の夫を奪われた柏木由紀子さんは、深い悲嘆に暮れながらも、残された2人の娘(大島花子さん、舞坂ゆき子さん)を育てるために前を向き続けました。
群馬県上野村に建立された慰霊塔「慰霊の園」、そして険しい山道を登った先にある「御巣鷹の尾根」へ、遺族としての祈りを捧げる歩みは今も絶えることがありません。
柏木由紀子さんは近年、自身のSNSや著書を通じて、坂本九さんとの思い出や前向きに年齢を重ねるライフスタイルを発信しています。九さんが遺した名曲『上を向いて歩こう』『見上げてごらん夜の星を』『明日があるさ』は、今も世界中で歌い継がれ、人々に勇気と希望を与え続けています。
【日航機墜落事故と坂本九】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:坂本九さんはなぜ普段乗らない日航機を利用したのですか?
A1:普段は全日空(ANA)を最優先で利用していましたが、当日はお盆の帰省ラッシュのピークで全日空便がすべて満席でした。どうしてもその日のうちに大阪へ行かなければならない仕事の事情があり、キャンセル待ちで辛うじて確保できたのが日航123便でした。
Q2:坂本九さんの身元はどのようにして確認されたのですか?
A2:遺体の損傷が激しい状態でしたが、坂本九さんが幼少期から信仰し、肌身離さず首にかけていた茨城県の「笠間稲荷神社のペンダント」が胸元に残っていたことから、妻の柏木由紀子さんによって身元が確認されました。
Q3:坂本九さんの遺書は見つかっているのでしょうか?
A3:坂本九さんが書いた遺書や手紙は発見されていません。過酷な状況下にあっても最期まで生還を強く信じていたため、あるいは激しい機体の揺れの中で筆を執ることができなかったためと推測されています。
まとめ:歌声とともに語り継がれる命の尊さと安全への誓い
1985年の夏に起きた日航機墜落事故は、日本における空の安全基準を根本から見直す契機となりました。坂本九さんをはじめとする520名の犠牲者の無念は、決して風化させてはならない教訓として今も航空業界の安全対策に深く刻み込まれています。
どんなに時が流れても、坂本九さんが遺した温かな歌声と人情味あふれる人柄は色あせることがありません。御巣鷹の尾根に眠る祈りとともに、空の安全への誓いはこれからも未来へと語り継がれていきます。 (出典: 日航 機 墜落 事故 坂本 九(Yahoo!ニュース))